愛に狂った末の衝動
054:愛してるという言葉だけであなたをころせたらなら
ざわり、と枝葉が鳴った。葵は濡れ縁に腰を下ろしたまま沓脱ぎへ裸足の足を投げ出していた。裏稼業として所属していた団体が消滅し、葵と組んでいた葛ともども裏の仕事口を失った。もともと組織の上層部の判断で集められた者どもであったからその組織が消えれば籍も消えて、葵は今ではただのその日暮らしでしかない。相方であった葛の提案を無視して無茶をして死にかけ、それでも生きて何とか戻った先に葛は待っていてくれた。葛の生まれは高貴な軍属の一族であると本人からちろりと聞いていたからそちらへ戻っているものと思っていたのでことのほか嬉しかった。表向きの繕いとして経営していた写真館は畳んで、ちょっとした辺鄙な場所へ葵と葛は居を構えた。この家を用意したのは葛で、葵はそこへ転がり込んだに過ぎない。だから葵はその日暮らしの浮浪でありながら同時に居候でもある。
家事分担は写真館のころと変わらない。葛も日雇いであり内職に励んでいる。水際立った筆であるから手紙の代筆や正式書類の清書、毛筆で一筆添えることなどを請け負っている。賞状書きなどと言う内職があるのを葵はそれで初めて知った。道理で賞状の字は綺麗なわけである。字の上手いものが請け負っているのだから。しかも葛は口が固いから誰それの何を書いたなどと絶対に言わない。閨で戯れに問うたが守秘義務、などと言われて口を割らなかった。その閨を終えた深夜と明方の狭間で葵は濡れ縁で脚を投げ出しているのだ。
夢を見た。葛が生涯の伴侶であると顔さえ見えぬ女性を連れてきた。無駄飯食いは出ていけと叩きだされた。お前とこれから付き合いを維持する気はないと最後通牒をつきつけられた。全部夢だ。でもそのたびに葵は全身にびっしりと汗の粒をにじませて跳ね起きる。隣の葛を起こさぬよう、そっと寝床を抜け出して閉てられた雨戸を開けて濡れ縁で呆けた。開ける音で目覚めているかもしれないが、葛は今のところ物思いにふける葵に声をかける気配はなかった。だから葵はこうしてざらつく沓脱ぎに足裏を擦らせているのだ。
体をねじるようにして振り返る。こうして月明かりに照らされる葛はますます人形じみている。日本人形の陶器のざらつきではなく蝋人形の艶めかしさだ。白皙の美貌に頬骨や鼻梁は透き通り、シミやくすみもない。化粧したようにくっきりとした黛や閉じられた目蓋。睫毛が長い。うっすらと頬へ影を映す。黒くて密で長い睫毛だ。女性陣が苦労して目元に化粧を施すのを嘲笑っているかのように葛の顔容は美しすぎる。賢しらな額は白磁の白さで調えられた髪は艶めく濡れ羽色。短いからうなじが見える。閨の時の体勢によっては尖った頸骨の突起を数えられるんじゃないだろうかと思わせるほど葛の皮膚は薄い。それでいて強靭で柔軟に躍動する体と戦闘能力を持っており、少々の喧嘩は負けないし怪我もしない。その体がさっきまで葵の腕の中で熱を帯びて融けていたかと思うとまた熱が上がりそうだ。しがみつく爪先の疼痛も発熱したように紅くなる唇も、葵は大好きだし愛していると思う。
だからこそ。葵は葛がもし葵のもとを去るというならば。その時こそ潔く死んでやろうと思う。私のことなんて忘れて新しい恋に生きてね、なんて綺麗事は言えないし言わない。絶対に忘れてほしくない。葛が葵を忘れたら、『三好葵』は世界の全てから消えてしまう。葛が葵にもう用はないと言った時が葵の終わりだと葵は茫洋と思っている。
葛が葵は自立心があって一人でも生きて行けると思っているのを葵は知っている。そう振る舞ってきたからだ。留学経験と堪能な語学力と世渡りのすべ。その全てを葵は計画通りに築き上げてきて葛の中の葵を構築したのだ。だから葵は葛が葵を要らないと言ったら死ぬだろうなと思う。葵はこんなにも葛を愛している。何処を触ればどうなるとか、実は食えないものがあるとか、自分の特殊能力を嫌っているとか。葛の軍属と言う生まれは嘘やごまかしを赦さない世界だ。そこに駆け引きなどはなくただ実力社会と年功序列があるだけだ。逆に葵は情報操作と裏工作と駆け引きとで生きてきた。ご落胤として素直にまっすぐなどとはいかない。父親が誰か知らないのは、父親のつてを葵が利用するのを母親が嫌ったからではないかと思っている。ぼくのおとうさんてだぁれ? 私の好きな人。母親はいつもそうはぐらかした。今となってはそれも恨んでいない。逆に動きやすくて母親の先見の明に感謝したいくらいだ。だったら、この体は? 『三好葵』であるこの体がどうなろうと、本当はもうどうでもいいんじゃないだろうか。葵の胸部には刳れた痕が残った。爆散した飛行機から放り出されて着地したのが木々の上であり枝が突き刺さったのだ。貫通したので一時痛みを堪えるだけで抜け、後は止血などの措置をするだけで済んだ。
交渉を持つたびに葛は葵のこの胸の穴に触れる。そして言う。お前の胸の穴はいつから空いたままなんだ? そのたびに葵は穴なんかもうふさがってると笑って返す。そしてそう言うと葛はどこか泣き出しそうな哀しげな憤りをその漆黒の双眸に湛えるのだ。涙で潤んだようなその瞬きは蠱惑的で惹かれてしまう。
「馬鹿者め」
玲瓏と響く声が鈴の様に響いた。ねじって振り向くと片脚が濡れ縁へ乗る。寝床から葛が体を起こしたところだった。軍属経験という本格的な戦闘訓練を受けていた体が白く浮かび上がる。布団や敷布の白さと融けあって艶めかしい。葵と離れていた期間で薄くなった背中は少しずつ戻り始めている。葵は葛を抱くたびに、背中の薄さを確かめた。
「ひどいな、馬鹿って。しかもいきなりだし」
「お前は俺の言うことを聞いていないから馬鹿だと言ったんだ」
「聞いてるよ。胸の穴はもうふさがってるよ。野戦病院だけどお医者様のお墨付きだ」
「その穴ではないと言っているんだ、馬鹿者」
葵が小首を傾げる。その様子に葛の柳眉が寄る。憤りを堪える葛の顔が容が綺麗なだけに空恐ろしい。圧力がまるで違うのだ。
「俺は俺なりにお前を捉えているつもりだ。どんなやつかと言った概説的な」
そう、それでいい。葛ちゃんには綺麗なオレを見ていてほしいから、オレが作ったオレを見て。
「だがお前と暮らすうちに掴んだものもある。俺なりに捉えたお前だ。お前には伝わらんだろうが。葵、お前は本当は…」
すごく、さびしがっているような気がする。
葵の肉桂色が集束する。見開かれていく双眸に葛はじっと目を据えたまま逸らさない。
「だからお前の気が済むなら俺を始末しろ。お前の憂いは相対的なもののようだから、対象になっている俺がいなくなれば解消されるのではないか」
「――…っちょ…」
「お前は俺の元へ帰ってきてくれた。だからそれだけで俺は満足だ。こうして暮らしていることさえも夢かもしれないと思って跳ね起きる日もある。そのたびに隣で眠るお前のあどけなさに癒されてきた。だからお前が俺を要らぬというなら、殺してほしい」
俺はこの世に未練はないから。
葛の言葉は葵の核心をつき、同時に同じ泥沼へ嵌まっていることさえ暗示した。
「――馬鹿言うなッ! オレは! オレは殺されたって葛を殺したりなんかしない!」
ばん、と濡れ縁を殴る手がじんじんと痺れる。葛がそんなふうに思っていたなんて。二人ともが自分自身の価値を疎かにしていた。相手が望むならば未練などない。刹那的に燃える燐光が二つ、ほとばしった瞬間だった。
「…お前は、そう言うと、思ったよ」
葛が身じろいで膝を立てる。その膝に頬や頤を乗せる。葛にしては砕けた格好だ。引き締まって白い腹部とへそが覗いた。交渉で乱れた髪がはらはらと秀でた額を隠す。敷布の上を這う桜色の爪先に細いくせに強靭な指。骨の在りようがたどれそうに大きな手の甲ときゅっと締まった手首。葛の動作のいちいちが流水のように滑らかだ。頬杖をつく一連の動作が艶めいている。肘の具合や手首の締まり、白く乳白の皮膚が月明かりに照り、葛の黒曜石の双眸を際立たせる。
「お前は、優しいな」
葛の双眸が潤んで瞬く。葵は何も言えなかった。葵自身が、葛から要らぬと言われれば儚む心算だったのだ。葛ばかりを責められない。同じであったのだ。二人は閨まで共にしながらどこか別離し、同時に境界線を失くすほどとろけあっていた。あァ、これが、こういう言葉で言えばいいのかな。葛が小首を傾げる。婀娜っぽい。
「愛してる」
死んでもいいと思った。この次の瞬間に葛の鋭い動きで喉首かき切られて失血死しても良かった。
「う、あぁあぁあ、ああっぁっぁあああ!!!!」
慟哭して喉をかきむしる葵を葛は黙って見ていた。葛の中の葵の虚像の崩壊と新たに築かれた実像。そこに葵が関わる余地はなく、葵はただ普通の人でしかなかった。葛の目は節穴ではなかった。葵がわざと『三好葵』を作っていたことに気付いていた。そのうえでなお、殺されても構わぬという。だから、葵は。
「愛してるって、言葉で死ねたらいいのにねぇ」
葵は葛に飛びかかって押し倒すとその上に覆いかぶさって泣いた。涙があふれて葛の皮膚を濡らす。白皙が潤んでいくのを葵のにじんだ視界がとらえていた。葵はかきむしるように、葛をかき抱いた。拍動が嬉しかった。発熱する体が愛しかった。殺されたいと言ってくれる心が嬉しかった。葵は、葛が好きだった。
「かずら、かずらかずらかずら…!」
月明かりの中抱きしめられながら葛の白い裸身が蠢いた。
愛してたんだよ
《了》